■坂巻裕一/佐カ間球壱

■2003-
■1999-2003
■■shinkan
■■kkq
■■geisai
■■tamajo
■1997-1999
■1994-1997
■1991-1994
■1978-1991


このごろ
大学生ごろ
新入生歓迎パンフレット
タマビグッズ
多摩美術大学芸術祭実行委員会広報局
2003年多摩美術大学情報デザイン学科卒業研究制作展 〜タマジョー〜
浪人生ごろ
高校生ごろ
中学生ごろ
小学生まで

 じぶんのかお
 1985.03
 うめ組
女の子は好んで人形のような人物像を描くのですが、僕は人を描くのがどうも苦手でした。似ないと恥ずかしいという思いが強かったのです。それでもがんばって描いたという感じが、ぎこちない線から伝わってきます。
保育所の修了アルバムより

 おひなさま
 1985.03
 うめ組
保育所が幼稚園と違う点は、教育をしないところだそうです。基本的に、子どもを預かる機能だけのようです。
保育所の修了アルバムより

 筆立て
 1985.03.29
 うめ組
保育所の自由時間にカレンダーの写真を見ながら描いたコアラを先生がすごく誉めてくれました。それから得意になって、何度も描いた記憶があります。もともと小さい頃からチラシの裏などによく落書きをしたりしていたのですが、そんな中でも、コアラは描く喜びに目覚めさせてくれた切っ掛けになったといえます。誉めてくれた先生へ感謝しなければなりません。クレヨンや鉛筆、版画も作ったのですが、今残っているのは、修了記念につくった筆立てだけです。

 ジャンボすべり台
 1987
 小3
小学校の校庭にある築山と通称ジャンボすべり台は、低学年の頃、なかよし(落書き)帳などに何度も描きました。前項のコアラにしてもすべり台にしても、一度気に入ったものを何度も反復して描くのが好きだったようです。
一年生の時の写生会で描いた築山は、市の文化祭用に選ばれました。放課後の教室で先生と残って描いていた時の、差し込む夕日がきれいだったのを覚えています。

 アンドロココ
 小3
当時の子どもたちの間で、ビックリマンというお菓子のおまけシールを集めるのが大流行していました。お店に入荷されたとたんに売り切れてしまい、慢性的な品薄状態が続いていました。また、シールだけを抜き取ってお菓子を捨ててしまう子どもが続出した事で社会問題にまでなったほどです。
ビックリマンシールの絵柄の模写は、専用の自由帳をつくって何冊分も描いたのですが、それらは全て長屋とともに焼失してしまいました。絵は無くなってしまいましたが、お気に入りの絵柄は何べんも繰り返して描いたので、今でも描く事が出来ます。手が覚えてしまっているのです。
掲載したのは、長屋にしまわずにあった漫画本の付録冊子に描いたものです。ちなみにこの漫画本は「ドラえもん」が連載されている事で有名な「コロコロコミック」という月刊誌で、僕の愛読書でした。

 瓢箪
 1987.10.18
 小3
「ふるさとの秋まつり」の陶芸教室に参加してつくったものです。当時集めていたビックリマンシールのキャラクターである「ヤマト王子」の持っている樽酒に憧れてつくったような気がするのですが、樽ではなく瓢箪なのは何故でしょうか。

 虫歯予防ポスター
 1988
 小4
テーマの赤い文字を黄色で縁取る方法は、三、四年生の時の担任の荒井先生に教わったもので、この頃よく用いていました。その縁取りも途中までしかやっていませんし、この絵は完成しているのかすら定かではありません。

 花弁型土器
 1988.08.01-05
 小4
夏休みに市内の小学生が集まって開かれた「のびのび教室」でつくりました。
夏休み空け、学校に持って行った時に遠藤利之くんが机から落として割ってしまいました。割った時は放課後で、ちょうど先生と僕と利之くんが居合わせていて、故意ではないにもかかわらず利之くんはかなり先生に怒られてしまいました。
僕は小学校の頃、かなり勉強が出来る方で、先生からもひいきされていたように思います。利之くんが必要以上に怒られてしまったのもそのせいかもしれません。怒られているのを見て、かわいそうだなとは思ったものの、先生に異見してまで利之くんをかばう言動には移れませんでした。意気地なしです。

 竹笛
 1988.08.01-05
 小4

「のびのび教室」にて。「ボー」という音が出ます。

 表札
 1988.08.01-05
 小4
「のびのび教室」にて。建て替える前の家では、実際に玄関に取り付けていました。

 イヌワシ
 1988.08
 小4
夏休みの宿題としての作品です。羽の模様をヘアピンで押して付けたのが工夫した点です。

 「私が見たアジアの子ども」を読んで
 1988
 小4
この作文はコンクールに出品したものです。しかし書いたのは僕ではありません。はじめは夏休みの宿題として自分で書いて提出したのですが、あとから先生がまったく違う文章に書き換えました。唯一原文どおりなのは題名だけです。清書のときに職員室で先生の文章を写すのがとても気まずかったです。
僕の作文がまずかったから書き換えられたわけですが、では何でそこまでして僕にやらせたのかというと、「選んだ本の題名が良かった」からだそうです。それは宿題とはいえ、本を読まなくてはならない以上、少しでもおもしろそうな事が書いてありそうな題名の本を選びました。読んだのはあらすじだけでしたが。
今なら断わると思いますが、あのときは言うなりでした。結局この作文は県のコンクールに入選しました。こともあろうに、このコンクールの賞状は、今までにもらったたくさんの賞状のどれよりも大きいのです。全校生徒の前で、バカでかい賞状を受け取ったとき、とても罪悪感があったのを覚えています。

 子牛に乗るタイの子ども
 1988
 小4
「読書感想文集」より。ちゃんと署名を入れて自己主張しています。人を描くのは相変わらず苦手でした。

 花弁型陶器
 1988.10.16
 小4
「ふるさとの秋まつり」にて。

 つくえ
 1989.01.10
 小4
つくえ係の名簿に書いたものです。
つくえ係というのは、つくえがきちんと並べられているかを調べたり、並べたりする係で、教室の美観を保つ上でとても重要な役割を果たしていたと思います。机を乱したまま帰ってしまった人を放課後に調べて、次の日の朝に注意したりします。もちろん、優秀だった人は学期末に表彰します。

 平和な世界
 1989.01
 小4
校内書き初め大会にて。
小学校に上がるか上がらないかの頃から字を習いに行きました。また、小学二年生から柔道もはじめました。どちらも自分から希望したのではなく、親にやらされたという始まりです。僕は大学進学を決意するまで、親に何かを習わせてほしいと申し出ることはありませんでした。
そろばんや学習塾など、習い事を始める人は結構いましたが、やはり好きでなくては続かないものです。とは言え、見識の狭い小学校低学年程度で生涯打ち込めるようなことを自分で見つけだすのは難しいでしょう。習い事を与える親に、運命を委ねなければならないところが大きいのです。
僕が今でも柔道と書道を続けているのは、根気強い性格によるところが大きいと思うのですが、やはり相性も良かったのだと思います。

 自己PR
 1988.03
 小3
すきな科目:理科
すきなこと:手作りの物を作ること
ゆめ■■■:体育がじょうずになりたい。
自己PR■:手作りの物を作り、それを自分で使っている。
「3・4年生の思い出」より。

 楽しかった新聞
 1988.03
 小4

「3・4年生の思い出」より。
「健康で学校に毎日、登校できるような五年生になりたい。」という言葉から6年皆勤への意識の芽生えが伺えます。しかし、僕の卒業年にはそれまであった皆勤賞がなくなってしまいました。賞にこだわるあまり、体調が悪くてもこらえて登校する僕を見て廃止したらしいです。
賞はもらえませんでしたが、高校を卒業するまで皆勤しました。
学校を休まなかったのは、単に心身が丈夫だったからではありません。休むことによって、自分が居なくても学校や授業が成り立つのを知るのが恐かったのです。


 絵皿
 1989.07.12
 小5
宿泊学習にて。
あすなろの里は、キャンプ場、動物小屋、釣り堀、野鳥観察小屋、温泉などがある施設です。市内の小中学生はここで宿泊学習を行うのが恒例のようです。
中央に描かれているのは、あすなろの里に面した菅生沼で、奥の山は筑波山でしょう。筑波山は茨城県の名所で、茨城には会社名などに「筑波」や「つくば」と付くところが多く、やたらと看板にその文字が目につきます。頂上が「女体山(標高877m)」と「男体山(標高870m)」のふたつに分かれているのが特徴です。

 河川愛護月間
 1989.08
 小5
小学五年生の夏休みに母の勤める会社の社員旅行で多摩に行きました。その帰りに車窓から見た川が綺麗だったので描きました。夏休みの宿題として、友達の家で描きました。僕としては珍しく一日で描き上げています。いかにもやる気の無さそうな、気合いの足りない絵です。絵なんか早く終わらせて遊ぼうよ、という勧誘に負けました。
僕は次作の「日枝神社」を描くまで、鉛筆でかいた下描きに色を塗るのが嫌いでした。鉛筆で丹念に描いた線が絵の具で塗り潰されて消えてしまうからです。鉛筆だけで終わりにしたいなあといつも思っていました。例えば、樹を描いたとき、鉛筆ならば葉の輪郭を一枚一枚丹念に描写する事が出来ますが、色としてはすべて緑としか捉えられません。幼いながらも、色の世界での線の無力さに思い悩んでいたのです。
「日枝神社」では、先生の助言によって、その悩みが解決されることになります。ですからこの絵からは、それ以前にかかえていた葛藤が見て取れます。

 ヘビの貯金箱
 1989.08
 小5
夏休みの宿題です。

 家庭学酋長
 1989.10
 小5
小学五年の時から始めた自主学習。自主学習とは言っても毎日先生に提出します。
「家庭学酋長」が「家庭学習帳」と明らかに違う点は、友達が読むことを前提として描いているところ。つまり、第三者が学習できる学習漫画仕立てになっています。
一冊目は普通に「家庭学習帳」でした。しかし、二冊目になったとき、表紙に「家庭学習帳」と書こうとしたら、「家庭学」を大きく書きすぎて「習帳」が入らなくなったため、端に小さく「しゅうちょう」と書きました。それを次の日学校に持っていくと、ノートを見た友達が「しゅーちょー探せ!ジャポニカ♪ジャポニカ♪」って歌い出しました。当時のジャポニカ学習帳のテレビコマーシャルの歌です。これですっかり調子に乗ってしまい、三冊目からは漢字を調べて「家庭学酋長」にしてしまいました。
変わったのは題名だけでなく、内容も漫画みたいになってしまいました。当時愛読していた漫画「おぼっちゃまくん」に出てくる「黒田治(くろだおさむ)」というイヌ口の人間をまねて描いていました。
主に中学二年までの四年間、ほぼ毎日書き続けた積み重ねは、良くも悪くも現在の自分の画風に大きな影響を与えています。

 輪島漆器のつくりかた
 1989.10
 小5
家庭学酋長は学習漫画風の内容です。「教える事は学ぶ事」といいますが、まさに第三者に分かりやすく描く事が自分にとっても勉強になっていたのだと思いたいです。

 家庭学酋長著者之印
 1980
 小6
ビックリマンチョコの台紙に切り刻んだ輪ゴムを瞬間接着剤で止めただけの質素な造りです。

 日枝神社
 1989.10
 小5
秋の写生会で描きました。この先「日枝神社」はそれぞれ構図を変えて、三度描くことになります。
前に述べたように、僕は彩色が苦手でした。実際、この絵に色を塗り始めた時までそうだったのです。しかし、間もなく完成かという頃に、四学年の平塚先生が突然現れて、「こういう看板とかの文字はなあ」と言って僕の筆を取り、「こうやって水でぼかした方がいいんだよ」と教えてくれました。たしかに、はっきり描いてあるより、ぼやけていた方が何となくそれらしく見えました。「‥‥こういう方法があったのか!」‥‥目から鱗が落ちる思いでした。
当時は大変感動して大喜びしたものですが、実は、この技法は、小手先で曖昧にしてごまかしているだけとも言えます。これ以降、僕はこの技法に溺れ、固執する事になります。驚くべき事に、それは高校を卒業するまで続きました。技術は数を重ねる毎に上達していきましたが、技法に甘んじて思考は停止してしまいました。保証のない挑戦が不安で目先の成功を選んでしまったのです。しかし、この技法によって、絵を描く事、色を塗る事に自信を持てるようになったのです。

 親子亀
 1989.10.15
 小5
「ふるさとの秋まつり」にて。何だか亀が好きだったようです。のんびりしているところが似ているからでしょうか。最後には勝ちます。

 計画の実行
 1990.01
 小5
県の書き初め展への出品作品です。

 愛鳥カルタ
 毎朝が鳥の声でいっぱいに
 1990
 小5
まずは全校生徒が五・七・五のアイデアを出し合い、投票で決定した後、巨大なカルタをひと学級で五枚ぐらいずつ、全校で描いてカルタ取り大会が行われました。
僕の学校が、県指定の愛鳥モデル校に指定されている事から、早朝の野鳥見学会を行ったり、餌台などをつくった事がありますが、これもその一環として行われました。
この札の言葉は、当時六年生の倉持保之くんによるものです。

 ヤマト王子のネコ
 1990
 小5
当時の子どもたちの間では、ビックリマンというお菓子のおまけシールを集めるのが大流行していました。お店に入荷したとたんに売り切れてしまい、慢性的な品薄状態が続いていました。また、シールだけを抜き取って、お菓子を捨ててしまう事などで一時は社会問題にまでなったほどです。
ヤマト王子は、ビックリマンシールのキャラクターの一人で、このネコはヤマト王子が頭に巻いているものです。これを通学用の黄色い帽子の裏に仕込んで、なんだか格好良くなった気分になっていたのです。

 くるくるぱー
  Q1くん
 1990
 小6
教室の窓から見える富士山がお気に入りのQ1くん。しかしある曇り空の日、雲に隠れて富士山が見えなくなってしまい、Q1くんは富士山が死んでしまったのだと勘違いしてしまいます。果たしてQ1くんは富士山に再会することができるのでしょうか。キャスト:Q1くん(黒田治)

 へんたいQ1くん
 1990
 小6
キューリー星からやって来たきゅうり顔のQ1くんと、漫画「ちびまる子ちゃん」のまるちゃんとの掛け合いが面白い、漫才風の話です。
前項との二作品は、当時となりの席に座っていた長谷川宏美さんが描いてくれたものです。

 七夕集会
 1990.06
 小6
全校規模の印刷物の原稿を描いたのはこれが初めてだと思います。しかし、いったん配付までされた初版に誤字が多すぎたため訂正版がでました。誤字が直されるのは仕方がないと思いましたが、挿し絵の短冊に書いてある願い事の文句も「お金もち おさむ」から「明るく元気な子」に書き換えられてしまっていたのにはとても傷付きました。

 筆立て
 1990.07.29
 小6
子供会キャンプにて。

 日枝神社
 1990.10
 小6
描いた当時はとても嫌だった気がします。もっとシャキっと描きたいのに描けない。不器用な自分に腹が立ちました。しかし、今みてみるとそのぼやけ具合が逆に夕暮れの逆光の雰囲気を醸し出していると思います。
空にあるシミのようなのは赤とんぼです。秋にはウジャウジャいます。この、夕焼けと赤とんぼはシリーズ化されて、以後中学三年までの県展に出す作品に毎年描き込まれました。こうやって絵の中に遊びを入れるのも密かな楽しみです。

 思いでつくろう
 1990.10.18-19
 小6
修学旅行の歌のしおりです。表紙に家庭学酋長のキャラクターが描かれています。
曲目を見ると、時代を感じます。
校歌
里の秋
太陽がくれた季節
もみじ
ぼくの飛行機
若者たち
まっ白い心
神様がおりてくる夜
ともだち/中村あゆみ
ダイアモンド/プリンセスプリンセス
心の旅
浪漫飛行/米米クラブ
おどるポンポコリン/さくらももこ
1・2・3・GO!(P.S. I LOVE YOU)
さよなら人類
世界で一番熱い夏 /プリンセスプリンセス

 黒ちゃんの平均点達成作戦
 1990.10.28
 小6
学級紙「ぜいたく新聞」より。
先生がつくるのではなく、生徒がつくる新聞です。そこに頼まれて四コマ漫画を描きました。
媒体の立場をきちんと考慮して、教育系の話をつくりました。

 巣箱づくり
 1991.01
 小6
夏休みの子供会のキャンプで鳥の巣箱を作りました。その時の様子を、夏休みの宿題で「愛鳥週間ポスター」として水彩絵具で描きました。それを再び学校の授業で版画にしたものです。
かなり内輪の話になりますが、「我ら花園ラグビー応援団」という新聞の四コマ漫画ではしゃいだのがこの版画の制作時です。それは鈴木暁くんが版画板を挟むために家から持ってきた新聞紙に載っていた漫画です。当時お気に入りだったテレビドラマ「スクール・ウォーズ」の影響で、ラグビーネタには敏感になっていたこともあり、これを見つけて二人ははしゃいでいました。この新聞紙は今でも僕の版画板を包んでいます。

 年賀状
 1991.01
 小6
市報「広報みつかいどう」九一年一月号の「わたしの年賀状」という欄に掲載されたものです。市内の各小中学校から一名ずつ掲載されています。担任の先生から頼まれて描いたのですが、石塚貴英くんも同じく声をかけられていたようで、選考の結果僕のものが選ばれたようです。のちに市報を見た貴英くんから「なんで裕一くんだけ載ってんの」と言われ、困ってしまったのを覚えています。
しかし、僕の方も、この年賀状を描くにあたって、本番さながらの下絵を描いたりして、かなりがんばりました。努力した事を誉めてもらおうという気はありませんが、結果主義の美術の世界でも、努力をしただけ報われる部分があるのも確かだと思います。

 つばさ
 1990.03
 小6

この文集の主に絵やイラストの担当をしました。「つばさ」の所にかいた鳥の絵は、「みんなで飛び立つ」という意味でかきました。
この文集の編集委員になれたことをよい思い出にしたいと思います。

「つばさ」という言葉は誰が考えたのかは覚えていませんが、この絵を描いてるときに平塚先生に「ほお、みんなで飛び立つってワケだな」と言われました。本当はあまり考えずに描いていたのですが、そのうち何だかその気になってしまい、こんな編集後記を書いてしまいました。しかも平塚先生は自分で言った事を忘れてしまったのか、「おっ、いい事書くじゃねえの」なんて言われました。いま考えてみると、実はうまく乗せられていたのかもしれません。
こういう過大評価で得する時があります。過小評価でがっかりする事もありますが。でも、どちらにしても、他人の意見を聞くという事は、自分はこう思ってたけど、周りの人はこう感じてるんだな、と勉強になります。


 教室
 1990.03
 小6
「卒業記念文集」より。
もともとは机係の掲示物のために鉛筆で描いた絵だったのですが、先生が気に入ってくれて、文集の挿し絵としてペンで清書しました。帳面の落書きもコンクールに出す絵も、分け隔てする事なく全力で描いていました。ただひたすらに描く事を楽しんでいたのです。
それに比べて近ごろの僕は、「無駄に描く事」を控えるようにしている傾向があります。発表を前提としない絵は描こうとしません。ノートの落書きひとつにしても、描くからには誰かに見られることを無意識の内に意識してしまうのです。幼い頃から、誰かに見て欲しくて絵を描いていたのは事実なのですが、今はその意識がとても強くなっているようです。

 自己紹介欄
 1990.03
 小6
最初はもっとおとなしい感じのものを描いて提出したのですが、先生に、これじゃおもしろくないと言われて描き直したのが左です。確かに右じゃおもしろくはないのかもしれないけれど、すっきりしてて見やすいと思います。左のはムリがあります。しかし、こどもの絵はあとさき計算していない奔放さが良いというところがあると思います。合理主義のこどもなんてかわいくないです。そう考えると、僕はすごくつまらない小学生だったと思います。
なぜ将来の夢が新聞配達かというと、朝早く起きれるようになると思ったからです。朝寝坊なので。

 半そで半ズボン
 1990.03
 小6
今までがんばってきた事があります。それは、まだ学校を一日も休んでいません。それに、三年生の頃から、半そで半ズボンで、学校へ登校しました。このがまん強さを、西中学校に行ってからも、生かして行きたいと思います。

■shinkan
■kkq
■geisai
■tamajo
■2003-
■1999-2003
■1997-1999
■1994-1997
■1991-1994
■1978-1991

■sakama91@mac.com
新入生歓迎パンフレット
タマビグッズ
多摩美術大学芸術祭実行委員会広報局
2003年多摩美術大学情報デザイン学科卒業研究制作展 〜タマジョー〜
このごろ
大学生ごろ
浪人生ごろ
高校生ごろ
中学生ごろ
小学生まで