■坂巻裕一

■2003-
■1999-2003
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■■tamajo
■1997-1999
■1994-1997
■1991-1994
■1978-1991


新入生歓迎パンフレット
タマビグッズ
多摩美術大学芸術祭実行委員会広報局
2003年多摩美術大学情報デザイン学科卒業研究制作展〜タマジョー〜
このごろ
大学生ごろ
浪人生ごろ
高校生ごろ
中学生ごろ
小学生まで

 漢字表記に因る世界の言葉
 1994
 高1
日本で生まれ育ったにも関わらず、日常生活の中で純日本語のみで会話や筆記表現を行なうことは、今日ではもはや不可能に近いでしょう。
そんな世の中に疑問を抱いて、一時期図書館から文献を引いて読みあさったりしました。ここに掲載された状態になるまでの編集作業は気が狂いそうになるほどの時間と手間がかかりました。僕の知る限り、ここまでまとまった資料は他にはないと思います。苦労してつくったわりには全く役に立っていませんが。
しかし、よくよく考えると漢字ももともと中国の物だし、ひら・カタ仮名もその応用です。日本固有の文字は今のとこころありません。ものごころ付いたときには既に遅く、外国文化が入り交じっていた国、日本。では、何がオリジナルかと問いつめてゆくと、「やまとことば」や「こころ」などの目には見えないものだけになってしまいます。今度は国学をやらなければならなそうです。
参考資料:「広辞苑」「面白読本辞書にない言葉」「当て字の雑学」ほか

 漢字表記に因る世界の地名
 1994
 高1
 

 濠国学生ニ因ル世界地圖
 1995.05
 高2
学校課題にて。科目は意外なことに英語です。

 王羲之蘭亭序臨
 1994.07
 高1
古典をなぞったものを作品と呼ぶかは賛否両論ですが、書道は絵画と違って創作をする機会があまりありませんでした。明けても暮れても、お手本をなぞる事の繰り返しでした。それだけ基本が大切な世界ということでしょう。

 せんべや
 1994.09
 高1
菅生の人間ならみんな知っている娯楽の館です。正式な名前は栗原商店なのですが、いつしか「せんべいや」となり、なまって「せんべや」となったようです。いまではさらに略されて「べや」と呼ぶ人もいます。焼きそばは作ってくれるのですが煎餅はつくっていません。売ってもいません。なぜ「せんべや」なのかは謎です。でもいいんです。おじさんのつくる卵焼きそばがうまいから(ちょっとソースをかけ過ぎなのですが、そこが僕好みです)。

 佐カ間球壱全集
 1994.12.31
 高1
これまでに描いた漫画を束ねたものです。全て家庭学酋長関連のものです。

 家庭学酋長誕生物語
 1994.12.31
 高1
前項の全集にしても、これにしても、自分のルーツを明らかにしておきたいという思いが強くあるようです。

 稲作物語
 1994.12.31
 高1
中学生の時に描いた同題の漫画のリメイク版です。すっきりと読みやすくしました。

 坂野家住宅
 1995.05.19
 高2
「坂野家」は水海道市にある国指定重要文化財です。取材にいったり市役所で資料を集めたりして、あの頃は若かったなあ‥‥。こういう仕事は中学校の卒業文集制作以来だったのですごくはりきりました。本当はいけないことだけど、何かきっかけがないと事を起こせないというところがありました。 
参考資料:「国指定重要文化財 坂野家住宅」(水海道市発行)ほか、題字:「国指定重要文化財 坂野家住宅」(水海道市発行)より

 坂巻裕一
 1995
 高2
 

 球
 1995
 高2
 

 球壱
 1996.10.23
 高3
前の二作は学校の課題ですが、本作は県の書道展に出品する書に押すためにつくりおろしました。

 片平旅館
 1995.09.11
 高2
高校での二作目です。紙は美術の先生が用意してくれたのですが、まず驚いたのがその大きさです。小学生の頃から、絵というものはずっと四ツ切り画用紙に描いていたので、B全という大きさはショックでした。
描き始めるひと月ぐらい前から、下校途中に寄り道したりして題材を探しに市内を散策しました。にぎわう商店街も一歩路地裏に入るとガラッと雰囲気が変わって、時間が止まってしまったような静寂に、どこか別の世界に迷い込んだような気になります。「へえ、水海道にもこんな場所があるんだ」描いた絵はこれひとつですが、なかなか得るものは多かった気がします。毎日見慣れてた風景も心のアンテナを伸ばして観察してみると、普段とはちょっと違って見えるかもしれません。
これを描いてる間にはいろんな事がありました。進級、家の立て替え、夏休みの部活、合宿、アルバイト‥‥。作品にそれを描いてた頃の情景が浮かぶというのはこの絵に限った事ではありませんが、だらだらと半年もかけて描いていたこの絵には、あまりにもいろいろなものが詰まっています。

 片平旅館下絵
 1995.03.08
 高2
この旅館の一階はそば屋になっています。
細部の観察のために度々旅館の前を通って見てる内に、ある日、そば屋がずっと閉まってるのに気付きました。以前はのれんが掛かっていたのですが。
絵が完成した後も、気になって旅館の前を通るたびに見ていました。しかし営業している様子のないまま一年が過ぎました。
もともと県展のために描いた作品ですが、いろんな人に見てもらおうと思い、翌年地元の文化祭にも出品しました。賀多平旅館の方にも見てもらおうと旅館を訪ねてみました。
店は開いてないので通用口に回って声をかけると、しばらくしておばあさんが出てきた。どうして店が閉まったままなのかを聞いてみると、主人が亡くなってそばを打つ人がいなくなってしまったからだといいます。旅館の昔の話もしてくれました。交通が不便だった頃、泊まり掛けの出張のために役人がよく利用したらしいです。
ここの絵を描いたのでよかったら見にきてください、と告げて旅館を後にしました。

 たばこ干し
 1995.09.23
 高2
この夏、近所の農家でアルバイトをしました。主にたばこの葉の収穫をやりました。暑いし、たばこの樹液(ヤニ)で手はベットリ、真っ黒になります。僕はジトジトベタベタが大の苦手で、たばこ畑(林)に入る時は決死の覚悟でした。それに比べて冷房の利いたトラクターの中で畑を耕すのは楽ちんでした。無免許なのに公道を走ったのも貴重な経験です。
仕事を終え、たばこの山に埋もれてトラックの荷台から流れゆく轍を見ていると、とても良い気分です。水汲み小屋に書かれた「オナニー命」の落書きにも、「かわいそうなヤツ‥‥」と哀れみを覚える。そんな充足感でした。
絵の人物は雇い主の鈴木さんで、水海道一高の増田前校長とは高校時代の同級生だそうです。
これが初めての油絵です。画布に描くのに憧れていたのでウキウキしました。初めてだし、油絵というと荒っぽいという先入観があったため、大胆に描こうと心掛けたのですが、結局は小さくまとまってしまった感じがします。

 湯呑み
 1995.09.26
 高2
修学旅行にて。

 一輪挿し
 1995.09.26
 高2
修学旅行にて。「将来、坂巻君が有名になったら価値が上がるから描いて」とねだられました。たまにこういう人がいます。嫌らしい言い方だなあとも思う反面、たいへん嬉しい事でもあります。

 THEBEATLES
 1996.05.05
 高3
ビートルズファンの柔道の先輩に頼まれて描きました。人の顔は風景画と違って、似てるか似てないかがはっきりするから苦手意識がありましたが、なんとか描けてひと安心です。
今はその先輩の経営する「外苑」という焼肉屋に飾ってあるそうです。

 はっぴ
 1996.06.04
 高3
家庭科の授業にて。自分でもびっくりするぐらい当時は几帳面だったということが、このはっぴの細部を見ると良く分かります。

 力必達
 1996.09
 高3
クラス対抗戦の学級旗に描きました。力必達(つとめればかならずたっす)とは努力は人を裏切らない、といった感じの意味で、柔道の創始者、嘉納治五郎が古典から引用した語です。自分史上まれにみる名筆だと思います。

 ラーメンの唄
 1996.10
 高3
僕が好きな音楽グループであるサザンオールスターズの「いとしのフィート(詞/桑田佳祐)」の冒頭の歌詞です。
彼らは、歌詞をつくってからそこに曲を乗せるという従来の楽曲の作り方を覆し、先に曲をつくる方法をとりました。こうすることによって、言葉の意味や数に縛られない自由な曲調を産み出すことに成功しました。今でこそこの方法は当たり前のことになっているようですが、サザンオールスターズがその先駆けだったのです。
なかでも「いとしのフィート」は曲と詞の組み合わせが尋常でなく意外でした。普通に考えたら出会うこともないであろうもの同士が無理矢理合体したような感じがとても心地よかったのです。詞が先にあったならば、この曲はなかったろうと思います。この曲を初めて聴き、歌詞を読んだとき、サザンオールスターズに出会えて良かったと心から思えました。

 花咲く旅路
 1996.10
 高3
前項に同じく、桑田佳祐さんの詞です。唄は原由子さんです。
創った時にはよくできたと思えた作品もちょっと時間をおいて見てみるとなんだこりゃって事がほとんどです。そんな中ではこの二点の書は僕の中で「いい作品」として長持ちしてるものです(一九九八年現在)。それでも最近になっては、う〜ん‥‥という気がしてきました。まだまだ発展途上なのでしょう。書く量は断然減ってしまったにもかかわらず、目だけは肥えてゆくのが不思議です。

 真夏の果実
 1997.10.05
 高3
「日枝神社」で述べたように、僕の描画技法は小五の時からからほとんど進歩していませんでした。「賀多平旅館」までの六年近くの間、自分のカラに閉じこもって小手先の器用さだけが発達していました。でもだれもそれを指摘する人はいません。気付きません。この年も今まで通りに描けば県展に入選するし、それなりの評価をもらえると思いました。カラの中は居心地がいいのです。
でもこれじゃ駄目だ。いつか行き詰まる。という不安に駆られ、この絵を描く事に至りました。
正直言って僕にはこの絵がいいのか悪いのか解りません。感想を求めても誰もはっきりとは答えてくれません。みんなシラけてた感じがした。
県展には入選しましたが、実は県展というのは最近のレコード大賞のようにあまり権威がありません。周りにいた美術大学を志望しているような人たちは、県展などは眼中になく、あまり自分の創作活動はしていなかったようです。もっと先の事を見ているという気がしました。
しかし僕のなかでは、県展が年に一度の一大イベントであり、出展を目標に制作に励んだものです。
とにかく、この作品で「自分革命」が成功したと思います。

 古本屋あらしの旅
 1996.11.19
 高3
岩井西高等学校図書委員会だより「BOOK WORM」十一月十九日付より。 
夜にいきなり家にやってきて、「今日中にかいてくれ!」と言うから「今日はもうかいちゃったよ」と断わったのですが、無理矢理かかされました。ひどいヤツです。 

 名前
 1997
 高3
あなたがわたしの名前を呼んでくれる
ただそれだけの事がとてもうれしい

 「済美」挿し絵の習作
 1997.01
 高3
小学校、中学校の頃は絵や書道のコンクールがあると自然と先生から声がかかってきました。「○○に出す作品を描いてくれないか」という風に。何にでも言える事ですが、もうお膳立てされたところへ「言われて」とか「頼まれて」臨む事が多かったです。
ところが高校は違いました。誰も注目してくれません。無論声なんかかかってきません。発表の機会が無いから、みんな僕が絵を描くという事さえ知りません。
これじゃヤバイと思って、美術の先生を訪ね、とりあえず年に一度の県展だけは出品させてもらいました。一・二年の時はこれで満足でした。実際、部活があったのでそれが精一杯でした。
ところが三年になり部活を引退して、淡々とした日々を過ごしているうちに「オレの高校生活ってこのまま終わっちゃうのか?」「まだなんにもやってねーよ」と思うようになりました。それで受験を間近に控えた頃になって、書に取り組んだり、学校誌のイラストを描かせてもらったりし出しました。
今しか創れないものがあると思いました。この多感な時期に自分が生きていたんだという証を、無性に残しておきたいと思いました。

 委員会だより
 1997.01.08
 高3
新年早々この構図がひらめきました。とは言っても新学期登校日前日に徹夜で描きました。中学校の文化祭のしおりや卒業制作にしても、どさくさに紛れていいものが出ることがよくあります。

 クラスめぐり
 1997.03.01
 高3
水海道一高では最近、制服自由化の声があがっています。生徒総会の度に議題に上がり討論されます。そこで生徒の意見の中によく「個性」という言葉が使われます。
でも個性というのは服装とか外見で決まるものではないと思います。自分の内からにじみ出てくるようなものではないでしょうか。自由化しようと言うのは構わないですが、個性を大切にしたいという事を理由にするのは短絡的すぎると思います。同じ制服を着てるからって、みんな同じ人間になるって事はありえないでしょう。
「自由には責任が伴うんだから、まずは普段の生活をきちんとしよう」といういい意見もありました。でも総会のすぐ後の清掃の時間に、素描をしに美術室に行ったら、二年生の女子が一人で床を掃いていました。最後まで他の人は来ませんでした。「誰も来ないね」って言ったら、「みんな忘れちゃってんのかな」なんて笑ってみせたけど‥‥。悲しかったです。これじゃ駄目だと思いました。こんな連中に個性とか自由を語る資格はありません。
僕は制服がないと困ります。毎日服を選ぶなんて面倒臭いです。そんなことを考えてるより、教室に花でも活けてみた方がよっぽどためになると思います。

 寄稿の広場
 1997.03.01
 高3
文明が発達するにつれて人間の生活はますます人と人との直接的なコミュニケーションを不要にしていきます。一度ぜいたくを覚えた人間は昔には戻れないし、たとえ戻ったとしてもそれは所詮まね事でしかありません。そんな世の中で、この三年間をボロくても伝統あるこの学び舎で過ごせたことを誇りに思おうよ、というメッセージを込めて描きました。

 部活動めぐり
 1997.03.01
 高3
二案つくり、五人に聞いて五人ともこっちがいいって言ったので採用しました。「済美」は新入生にも配られるので、作者の特権で柔道部のアピールに使わせていただきました。でも、これを見て入部する気になるとも思わないですが‥‥。柔道部員には「事件」の意味がわからなかったようですが、みなさんは分かりますか。

 えんぴつのせかい
 1997.02.07
 高3
えんぴつのせかいでは
えんぴつおうちにひとがすみ
えんぴつじどうしゃはしってて
えんぴついかだでさかなつり
えんぴつひこうせんもやってきます
えんぴつのせかいのおおきなそらには
なないろえんぴつとんできて
おおきなにじをかいてゆきます
えんぴつのせかいのひとびとは
みんなでなかよくくらしています

 球撰南天歌集III
 1997.02.21
 高3
僕はサザンオールスターズという楽団のファンです。彼らの良さを知ってもらいたくて、自選の曲集をプレゼントしたことが何度かあります。
しかしあるとき、他の人がサザンオールスターズ以外の歌手に熱狂してるのをみて、サザンオールスターズにしか興味のない僕は共感できませんでした。他の人からサザンオールスターズがそうみられている事もあると知った時から、以前ほど無理に薦められなくなりました。
お気に入りの楽曲を集めた、いわゆる「マイベスト」のようなものを自分で楽しむためにつくった事はありません。アルバムの場合、楽曲の作者はなんらかの意図を込めて複数の楽曲を一枚にまとめているのだからそれを味わうべきだと考えるからです。曲順の入れ替え(シャッフル)も同様の解釈で最近はしなくなりました。面倒臭いというのも大きな要因ですけれど。
ただ、やはり自分の好きな曲を好きなように並べ直すというのは楽しいことでしょう。特にそうやってつくったテープなどを友達同士で交換したりするのは、自分の趣向や感覚を相手に理解してもらえる好機であり、つい熱が入ってしまうのです。
小林尚弘所有。

 卒業記念文集題字
 1997.03.02
 高3
いくつかの文字の候補と構成案を描いて担任に見せました。文字は線の感じが桜の花びらに感じるという事で決めました。構成は、僕は色々手の込んだ事を考えていたのですが、桜色の紙に題字をそのまま刷るという先生の意見を通しました。手数だけが能じゃないという事と、客観的な意見の大切さが身に染みました。
別れの淋しさとこれからへの期待を感じる、おごそかな季節の雰囲気が表せたと思います。

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多摩美術大学芸術祭実行委員会広報局
2003年多摩美術大学情報デザイン学科卒業研究制作展〜タマジョー〜
このごろ
大学生ごろ
浪人生ごろ
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中学生ごろ
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