■坂巻裕一

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■1994-1997
■1991-1994
■1978-1991


このごろ
大学生ごろ
新入生歓迎パンフレット
タマビグッズ
多摩美術大学芸術祭実行委員会広報局
2003年多摩美術大学情報デザイン学科卒業研究制作展 〜タマジョー〜
浪人生ごろ
高校生ごろ
中学生ごろ
小学生まで

 坂巻軽銀
 1991.04.19
 中1
アルミ缶がひと缶二円で売れるという話をテレビのニュースを聞いて、小学六年から中学一年の頃にかけて道端や土手に落ちてる空き缶を拾い回りました。家族からはすごく非難されましたが、友達も一緒に拾ってくれたりして結構楽しんでやっていました。「軽銀」はアルミのこと。ちなみに、収益額は今のところ合計で二万円ぐらいです。
動機は不純でしたが、もともと環境保護やリサイクルには強い関心があったので、いつかまたやらねばならないなと思っています。それにしても変わり者です。こんな小学生なんていません。エネルギーの使い方をまちがっていると思います。
ちなみにこの冊子は坂巻軽銀出版部の名義で制作されました。また、製作費においても収益金の一部が利用されています。

 クリーン作戦
 1991.11.16
 中1
登校中に通学路に落ちている空き缶を拾ってくるという行事がありました。そして学級ごとに集めた缶の量を集計し、多かった学級を表彰するという事でした。今思えば、ゴミ拾いという慈善活動に、競い合う要因となる表賞を設けるというのはどうかとも思うのですが、当時の僕は小学校の頃から坂巻軽銀を通して空き缶拾いをしていたこともあり、すっかり気合いを入れてこの行事に臨むことになりました。
前の晩は早く寝て、まだ真っ暗な朝の二時に出発し、なるべくたくさん拾うために通学路以外のいろんな道を回ってゆきました。
結果、僕のクラスは一番になり、僕が学級の代表として表彰状を受け取りました。とは言っても、ひとクラス三十人以上いるので、僕一人のがんばりででどうにかなるわけもありません。結局はクラスのみんなががんばっていたという事です。

 クロッキー
 1991.04-
 中1
中学一年の美術の時間に、毎時間はじめの十分で人物クロッキーをしました。
この作品集を見ると、中学校以前の作品に人物を描いたものがほとんどないのがわかります。人物は風景と違って長時間観察するには都合が悪いし、単純に苦手だったりして、無意識の内に描く対象から外していました。
いま思うと、嫌でももっと描いておけば良かったなと思います。人物のおもしろさにもっと早く気づくことが出来たと思うからです。これらのクロッキーは、稚拙ではあるけれど、これから成長してゆくうえで失ってゆくもの、忘れてしまいそうなものがたくさん詰まっている気がします。

 家庭学習提出調査
 1991.04.18
 中1
学習係の仕事は、自主学習帳の提出状況をチェックすることです。年度末に優秀な人を表彰したのですが、中莖一彦くんが皆勤賞だったのには驚きました。

 レタリング
 1991
 中1
書道をやっているせいか、文字にはとても関心がありました。中でも中学生の頃は、文字を見るとそれはどんな書体なのかを気にせずに入られない程の熱心さでした。
コンピュータで自由に文字が扱える現在は、当時の僕が見たらショック死してしまう程の夢のような世界なのです。

 空想の世界
 1991
 中1
砂漠の世界にオアシス、の逆さまで、海の中にピラミッドを浮かべてみました。

 色面構成
 1991
 中1
色とその配置や組み合わせによって雰囲気をつくりました。左上から時計回りで軽い、重い、冷たい、暖かいを表現しているのだと思います。いまではベタ塗りで表現する事が多いものの、当時はそれがあまり気に入らなかったように思います。もっと、味のある絵肌に憧れていました。

 夢の世界
 1991
 中1
家が火事になった夢を見ました。「ボボボボボボ」と燃え盛る炎の音に目を覚ますと、実はその音は、トタンの屋根に雨が滴り落ちる音だったのでした。

 夢の世界
 1991
 中1
なんだか、精神異常者が描いた絵のようにも見えます。何でこういう絵を描いたのかを覚えていないところを見ると、大した思い入れや意図のあるものではないと思います。いや、もしかしたらとても嫌な事があって、記憶から消し去ってしまっているだけなのかもしれません。

 全員集合
 1991
 中1
自作の学習漫画「家庭学酋長」の登場人物を並べてみました。こういう細かい仕事が好きだったのです。キャラクターは、オリジナルや実際の身近な人物も居ますが、全体的に漫画などからの引用が多いです。

 稲作物語
 1991.08.22
 中1
家庭学酋長は普段は帳面に描く学習漫画なのですが、時折特別編として本格的な漫画風に描く事がありました。これはその最初のものです。原作は通常の家庭学酋長に鉛筆で描かれたもので、それを土台にペン入れをしています。

 坂巻軽銀
 1991
 中1
自作の空き缶回収業社の「坂巻軽銀」では、集めた空き缶の容積を減らすために一缶一缶木槌で潰していました。よく見ると僕の右手に懐かしのビックリマンチョコがあります。これを描いたのは中学一年生の時ですが、服装が菅生小学校の体操着なので回想画だということがわかります。この建物が本サイトの名前にも出てくる「長屋」です。長屋も今は無いので、歴史を感じさせる絵となりました。消えてしまった風景が、絵として残っているというのは、なんだか不思議な感覚です。

 親子孫亀
 1991.10.20
 中1
昨年の親子の亀を発展させて、三代にしてみました。「ふるさとの秋まつり」での陶芸教室は僕の中で恒例行事となっていて、密毎年かな楽しみにしていました。

 スライム
 1991.10.20
 中1
陶芸教室で、前項の亀の残りの粘土でつくったものです。
スライムとは、当時はやっていたテレビゲーム「ドラゴングエスト」に出てくる怪物です。キャラクターの作者は、これまた当時人気の週刊連載漫画「ドラゴンボール」の作者でもある鳥山明さんです。
ちなみに、「ドラゴンクエスト」は、主人公が敵を倒しながら冒険をして、成長してゆくという「ロールプレイングゲーム(RPG)」の先駆けとなったゲームです。発売日には学校を休んでまで店に並ぶ人もいる程の流行だったのですが、僕は全く興味がありませんでした。テレビゲーム自体は家にもあり、他のゲームはやったのですが、なぜかあまりRPGには手を出していません。

 本箱
 1991
 中1
美術ではなく「技術・家庭」という授業でつくりました。木材の加工技術を学ぶ事が目的だったので、創作的な部分はなく、形もみんな一緒のものをつくりました。とはいっても、手を動かす事は元来好きなので、とても楽しかったです。
ニスが塗ってありますが、これは授業が終わってから独自に加工したものです。無骨な本箱ですが、構造が単純で丈夫なので、今も使用しています。

 壁掛け
 1992.03
 中1
美術の課題ですが、家庭学酋長三周年記念も兼ねて主人公の黒田治くんを図案しました。

 ペンペン草
 1992.05.07
 中2
学校に生えていた草です。凹版画に挑戦しています。

 絵皿
 1992.05.07
 中2
宿泊学習にて。場所は小学五年生の時の宿泊学習で来たところと同じです。しかも、この絵皿まで同じものです。芸がないですね。

 ばいばい
 -珍論木芋燃焼論の巻-
 1992.06.02
 中2
小学校の頃に行った理科の実験と、放課後に行われた焼き芋の実話を元に描いた学習漫画です。「家庭学酋長」の特別編として描きました。
当時、僕は下校で友達と別れるとき「ばいばい」とは言わず「さようなら」と言っていました。特にしつけに厳しい家庭ではなかったのですが、幼い頃から「ばいばい」と言う人が周りに居なかったようです。そういう文化で育ってしまったのです。
僕の芸名である佐カ間球壱の名付け親の南幸司くんが、そんな僕に目を付けて、「ばいばい」と言わせようとしてきました。別れるとき、向こうが「ばいばい」と言って僕が「さようなら」と言と、また「ばいばい」と言い返してきます。僕が「ばいばい」と言うまで帰らないのです。僕も僕で意地になって絶対「さようなら」としか言いません。帰ろうとすると走って追っかけてきます。なんだか馬鹿らしいやり取りですが。これが僕らなりの別れ際の楽しみ方だったのです。
ちなみに、今では「ばいばい」は普通に使えるようになりましたが、今でも使わない言葉として「まじ」があります。

 自分のマーク
 1992.07.08
 中2
自分のマークをデザインしなさいという課題でした。
当時の僕の中では、「デザイン」というのは幾何形体などを用いてつくるものと捉えていたようです。たしかに、幾何的要素に昇華してゆく事はデザインの方法のひとつだと思うのですが、ここではその表面だけを真似ているに過ぎないなあという感じがします。
当時の自己解説によると、名前の頭文字のSをモチーフにしているとあります。そう言われればそうとも思えますが、難しく考え過ぎていて、分かりづらくしてしまっていますね。

 水車
 1992.08.30
 中2
へたくそではありませんが決して“いい絵”でもありません。この絵を見るとみんな一瞬しらけます。そしておせじで「うまいね」とか言ってくれます。そういう態度をされると、すごく馬鹿にされてるような気分になります。
あまり外には出しませんでしたが、この頃は精神的に病んでいてかなり辛い時期でした。それが絵に影響したのか、どことなく淋しさが漂っています。光のない世界という感じがします。
この水車は水海道市の「きぬ総合公園」にあります。水車が完成して間もなかった中学一年の時に描きました。来てみたら水車が回ってなかったので自分たちで回してみました。そのうち僕が水車に登り始め、登ったのはいいものの、途中で自分が振り子になって回りだしてしまい、池に落ちてしまいました。その時のズブぬれのTシャツが絵の中に描き込まれています。石に引っ掛かっています。一歩間違えたら水車にはさまれて死んでいたかもしれません。そう考えると今でもゾッとします。そんなことを思い出す一枚です。

 小物入れ
 1992.10.28
 中2
学校課題にて。

 富岳初日影
 1993.01
 中2
 

 友人像
 1993.01.27
 中3
僕の芸名である「佐カ間球壱」の名付け親である南幸司くんです。

 夢のない箱
 1993.01.29
 中3
この頃の学校での美術の制作において、僕は実用性を重視した作品づくりに傾倒していました。おもしろさや華やかさを追求するより後々まで使えるものをつくりたいと思っていました。
小学校の国語の教科書に、これに通づる話がありました。華麗な装飾の陶磁器で名を馳せた陶芸家が晩年、無駄を一切省いたシンプルな器に出会い目から鱗が落ちる。実はその陶磁器は、彼が若い頃意見が合わず決別した彼の師匠のものだった。というお話。余計なものをすべて取り払って残ったものこそ真に美しい。あれこれくっつけて誤魔化すのは簡単なんだということを説いていました。
だからといって中学生がそんな事を考えるのはまだ早いのかもしれません。本来はもっと無茶したり失敗を繰り返しながら少しずつわかっていくものなのかもしれません。
「夢のある箱を作ろう」 という課題で制作した「夢のない箱」はこの頃の思想の結晶です。シンプルなつくりは今見ても飽きが来ません。いつも美術の成績は5だったのですが、この学期は4でした。担任の先生(美術とは別の先生)はこの評価がとても不可解そうでしたが、僕は仕方がないと思っています。 

 イエノキ(家の樹)
 1992
 中2
学校の空想画の課題で描いた作品です。種を蒔くと家になってしまう樹です。こういう樹があったらいいなあとか、家の中に大きな樹を植えられたらいいなあとか思うことがよくありました。
僕はこの絵は、のっぺりとした画風が気に入らないのだけれど、好んでくれる人もいます。自分が描いていて楽しい絵と、見た人が喜んでくれる絵は違うこともあるんだと実感しました。

 逆さ球
 1991|中1
特に意味はありません。単純に、正像で彫ったら逆さまになってしまったのです。

 球
 1991|中1
もちろんあとからきちんとつくり直しましたよ。

 修学旅行のしおり
 1993.04.24
 中3
中学生活三年目にして初の大仕事でした。旅行といえばサザエさん(アニメ)のオープニングでしょう。この表紙を見て「サザエでございまーす!」と聞こえたならば成功です。
個人蔵。

 うちわ
 1993.05.18
 中3
学級旗は紛失のため、学級うちわになった提案用画を掲載します。この「獅子篇」の他に「麒麟篇」「半馬人篇」「ハト篇」がありました。個人的には、担任の鳩貝先生に掛けた、ハトが好きでしたが、ギャグが通じず、格好良い路線が採用されました。

 平成五年度生徒総会
 1993.05.24
 中3
「生徒会本部役員」に対して、「“会員”佐カ間球壱」としたところに「生徒一人一人が生徒会の一員なんだぞ!」というひそかなメッセージを込めています。「REVOLUTION」は生徒会本部であとから組み込んだものです。僕からこんなアカぬけた言葉は出て来ません。

 頭髪問題 私たちは?
 1993.08
 中3
この夏は燃え上がっていました。夏休みの半分くらいを登校しました。計算、描く、「子々家庭は危機一髪」(昼ドラマ)を見る、また描く。主人公の女の子はとてもかわいかったです。恒例の「タッチ」の再放送もやっていました。受験生のくせに勉強はそっちのけでした。でも、がんばったおかげで「茨城県統計協会総裁賞」というのをもらえました。今見てもこのレタリング(文字)は見劣りしません。
共同制作:河田剛 坂野浩之 盛利行 渡辺勝敏、撮影場所:茨城県庁、取材協力:鈴木雄一、県庁統計課の長作さん

 日枝神社
 1993.09
 中3
この神社を描くのもこれで三度目です。前の二作がどこかしら納得のいかないままに終わっていたので、ケリを付けるつもりで気合いを入れて描きました。
その点ではちゃんとやりきっているので、長年たまっていたモヤモヤを振り払ってくれた会心作だといえます。
しかしながら、こうやって月日を経て三作を見比べてみると、二作目が一番“いい絵”だと思えます。それに比べると一枚目はまだ技量が及ばない感じがするし、三作目は逆に巧さが嫌らしく、堅くなってしまいました。二枚目はいい意味で中だるみしていてのびのびと描いてる感じがします。
とは言っても、これはこれで愛着があります。過去の作品には全く未練を残さない作家と、我が子のように大切にする作家とがいるそうですが、僕は絶対後者です。前者の身軽さにも時々憧れることがありますが、とてもなれそうにはありません。
この作品集もそんな僕の作品に対する愛着の現れです。重くなったポケットの中の作品を、みかん箱に移し替えたといったところでしょう。

 西中文化祭
 1993.10.18
 中3
本来は「西中祭」なのですが、それでは字数が少なくて題字が淋しくなるということで、勝手に「西中文化祭」に変えてしまいました。やった者勝ちという感じで、ビシッとつくって持って行ったら誰も指摘する人はいませんでした。
技術的な面で言うと、初めてスクリーントーンを使いました。買ってはみたものの、使い方がよく分からなくててこずったのを覚えています。トーンを削ったりする方法があるのを知らず、直線的な切りっぱなしの空の調子が、初心者ぶりを物語っています。
印刷日当日の登校前に絵と題字は描き終わったのですが、下の副題が間に合わず、放課後まで印刷を待ってもらって、わざわざ文字見本帳からコピーを取って配字しました。ワープロの字ではどうしても納得がいかなかったのです。 ひどいこだわり様です。英文中の「「’!」」も手描きです。恐るべし、過去の自分。
しかし、印刷を待たせてまでこだわっただけの仕上がりになったと思います。

 プラネタリウム館
 1993.10.23
 中3
「文化祭のしおり」より。 僕のクラスは部屋を暗くしてプラネタリウム館をしました。もしかすると三年三組の教室の天井にはまだ畜光シールが貼ってあるかもしれないです。
この夜空のイラスト、中学生にしてはうまくデザイン処理されてるとおもいませんか。

 西中学校
 1993
 中3
小中学校にコンピュータ室があるのは今では当たり前になっているようですが、僕らの世代はちょうどその移り変わりの時期で、中学在学中にコンピュータ室が設置されました。床はカーぺット敷きで、上履きは脱いで上がります。職員室にさえない空調が完備され、入室はものものしい雰囲気でした。かなり大事に扱われていたと思います。
そんな中で、デジタル画像の初体験です。文化祭のしおりの表紙画に用いた校舎を描いています。おそらく記憶だけで何も見ずに描いています。この頃は作品をつくるペースはゆっくりしていましたが、その代わり、ひとつひとつにじっくりと向き合っていました。記憶で描けたのも、前に紙にペン描きした際、丹念に一本一本の線を確認しながら描いていたためでしょう。

 自画像
 1993
 中3
クロッキーは結構いい感じだったのですが、ちょっと改まって描いてみると、つまらない絵になってしまいました。ボールペンは線の表情に乏しいのも味気ない要因かもしれません。しかしながら、図らずも自分の内面の冷たさのようなものが表れている気はする。

 縁起文字
 1993
 中3
竹で骨組みをつくり、そこに和紙の色紙で図案装飾を施し、ニスを塗ってコースターをつくりました。四枚つくり、それぞれに片面には文字、もう片面には絵を配置したと記憶しています。
しかしそれは紛失してしまったため現存は定かではありません。
かろうじて制作過程につくった紙片が残っていたのでここに掲載します。これは型紙としてつくったのか、もしくは一旦はさみで切ってみたところ和紙らしさが損なわれてしまったため、手でちぎる事にして没になったのかもしれません。
この文字を見て先生は、「器用だよなあ」と感心されていましたが、今見ている僕自身も良く出来ているなあと感じます。特にお手本があったわけではないのですが普段から文字に興味があって、何となくつくっていしまいました。そのわりには立派過ぎます。

 春風梅花開
 1994.01
 中3
ある意味、この頃がいちばんうまかった時期です。

 暦
 1993.12
 中3
母に頼まれてつくりました。次の年から自分でも使っています。余白を大きくとってあり、予定や出来事などがたっぷり書き込めるように設計しました。高校入試の時には、この暦に日程を書き込んで頑張ったのを思い出します。平成七年からこの表紙になり、今まで続いています。

 夢に向かって
 1994.03
 中3
卒業制作をするにあたってクラスみんなで図案を出し合い、僕の絵が採用されました。
案を持ち合う日の当日まで考えが出なくて、朝の登校寸前に殴り描いて持って行きました。それが選ばれてしまったのだから、頑張って描いた人にはちょっと悪い気がします。
しかし、まさかこれが選ばれるとは思ってもいませんでした。こんな稚拙なものでよかったのかなあ?他にもっといい感じのがあった気がするのですが。まあとにかく、あの朝、とりあえず描いとけ〜ってのが無かったら、この作品は無かったんだなあと思うと、やっぱり描いて良かったんだなと思います。
放課後や休み時間にみんなでベニヤ板にビニルチップをパチパチ折りながら張りつけました。みんなで作ったみんなの絵。こういうのっていいですよね。
撮影場所:水海道市立西中学校、撮影助手:河田吉達

 卒業記念文集
 1994.03
 中3
冬休みに登校して、保健室の前にあった生け花を図書室に持っていって描きました。その花はすでに枯れて水も腐っててすごく臭かったのですが、紙の上でよみがえらせました。

 3年3組
 1994.03
 中3
「ふぞろいの林檎たち」というテレビドラマのオープニングの情景をご存じでしょうか?新宿のビル群を背景に林檎を放るシーンです。空気と時間の描写がとても美しいのです。
ここでは、それをなんとか一枚の紙の上に表現できないかと試みたつもりです。余白をうまく活かした構成に仕上がったと思います。驚くべき事に文字もすべて手描きなんです。コンピュータも本もないから、全て手でやるしかなかったのです。

 ハト
 1994.03|中3
担任の鳩貝先生にちなんで。

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■1991-1994
■1978-1991

■sakama91@mac.com
新入生歓迎パンフレット
タマビグッズ
多摩美術大学芸術祭実行委員会広報局
2003年多摩美術大学情報デザイン学科卒業研究制作展 〜タマジョー〜
このごろ
大学生ごろ
浪人生ごろ
高校生ごろ
中学生ごろ
小学生まで